この事件は決して突発的な出来事ではなく、そうした事件の発生を許す土壌があった、ということが理解できたと思う。
この事件を見ていて思うのは、インターネットの出現が今の日本社会をいかに変えたか、ということだ。
こんな事件が今起こったとしたら、隠し撮りされた画像や動画がネット上に溢れかえり、社会問題化するに違いない。
しかし、当時はマスコミも同和タブーに怯えて、ろくに報道していなかった(唯一報道をしていたのが、共産党機関誌「赤旗」だというのは笑えない皮肉ではある)。
新聞やテレビが沈黙してしまえば、ほかの地域の市民は事件を知るすべがない。
事件はまさしく、闇から闇へ葬り去られる危険すらあったのだ。
余談だが、筆者は現在「ひぐらしのなく頃に」という、昭和58年を舞台としたゲームをやっている。
(注・まだプレイしてない人は、以下の段落を読み飛ばすようにw)
その中でも、ネットや携帯電話といった、デジタル・ディバイドの象徴としての道具の有無が、いかに人の行動を縛るか、といったことを痛感した。
警察官僚やマスコミが結託すれば、事件の存在すら「なかったこと」にできるのだ。
これほど恐ろしいことはない。
さて、今日は八鹿高校事件のプロローグとも言える事件を、同じく「同和利権の真相4」から追っていきたい。
事件の発端はこうだ。地元の「日高有志連」(北但馬.城崎郡日高町上鶴岡の区長ら部落住民有志などが結成した「部落解放運動の統一と刷新をはかる日高有志連・一が、朝田、丸尾派の蛮行を批判するビラを一般紙朝刊に折り込み、朝来郡一帯に配布する予定になっていた。それを事前に察知した解放同盟の青年行動隊は、配布前日の七日深夜、町当局を動かし、朝来郡一帯の和田山、朝来、生野、山東各地の新聞販売店を回っては、ここで思うのは、この解放同盟のやり方が、朝鮮総連のやり方と酷似していることだ。
「新聞折り込みをやめろ」、「商売で差別をばらまく気か」と脅迫し、ビラの折り込みをやめさせた。
一後日・解放同盟は新聞販売店を招集して「確認会を開催。
これに対して「日高有志連」は、翌八日の夕方から、丸尾らの妨害を批判するビラを、兵庫県教職員組合(兵教組一朝来支部組合員やその関係者とともに、朝来町で配布しはじめた。
ところが、その日の夜七時頃、朝来町の元津付近で一ビラを配布していた兵教組組合員の乗用車が、丸尾らが朝来町に購入させた大小の「解放車」によって、行く手を阻まれた。そして、解放同盟員らの集団に取り囲まれ、乗用車もろとも監禁状態に置かれてしまったのだ。
解放同盟の圧力はさらに続いた。現場から北西三キロにある朝来町口田路には、兵教組朝来支部長・橋本哲朗氏の自宅があった。
橋本支部長もビラの配布に参加していたが、その日の午後八時半頃、橋本支部長や片山正敏・八鹿高校教諭ら五人がビラ配布から戻ると、元津での監禁事件につ
いて知らされた。そこで車に乗って、すぐさま現場に直行した。
しかし、到着と同時に、たちまち解放同盟の青年行動隊に取り囲まれ、五人のうち二人は運よく難を逃れたものの、橋本氏ら三人は車に乗ったまま監禁状態に置かれてしまった。
監禁現場には丸尾自身も現われ、「糾弾」を指示すると、三〇〜五〇人の解放同盟員が、夜半過ぎから翌九日早朝にかけて、橋本支部長らの車を包囲し続けた。
そして、折からの集中豪雨の中、今度は橋本支部長らを車から引きずり出し、国道脇に設置されたテントに押し込んで、入れ替わり立ち代わり、脅迫・暴行を加えたのである。
事件を知った住民六〇人が、事態を黙認・放置する和田山署に抗議行動を続けていたが、警察が動き出したのは、九日午後五時半になってからのことだった。
機動隊が出動し、四〇〇人にまで膨れ上がっていた解放同盟員一うち、朝来中学校の「解放研」生徒二〇〇人一を排除したが、豪雨の中で不法監禁されていた二一人- 救出のために現場に赴いた共産党の町議、市議を含む一が助け出されたのは、二〇時間後のことだった。
その後の九月一八日には、八鹿町で解放同盟による業者別同和学習会が開かれ、そこで印刷業者らは「日高有志連」などのビラ印刷を拒否することを誓わされた。
また、町議会で解放同盟の利権間題を追及した議員らへの激しい糾弾もあり、白宅を一週間にわたって取り囲んで街宣活動を行なうなどの脅迫的な嫌がらせがあった。
以下の文章を思い出して欲しい。
同じ日本侵略勢力であり、「弱者であることを売り物にする」組織であることが、両者を相似形にしているのかもしれない。
−これは我々朝鮮総連の悪い癖である。日本の当局と交渉するにあたっては、何かにつけて「民族差別」だの「過去の歴史」だのを持ち出してことさら猛々しく振る舞い、理不尽な要求でものませようとする。そうすると、敗戦によって蹟罪意識を植えつけられている日本人は決まっておとなしくなってしまうのだ。この方法はたいていうまくいった。(「朝鮮総連の罪と罰」より)
しかし、この事件はそれだけでは終わらない。上に出てきた兵教組朝来支部長、橋本氏に対する「糾弾行動」という名のテロ行為が始まるのである。
いわゆる「朝来事件」である。
糾弾・監禁は、解放同盟沢支部の青年行動隊を中心にして計画され、丸尾から指導を仰いで、周到に準備されたものだった。一〇月二〇日から二六日までの一週問を"第一次"と決めて、実行に移された。これがどんな「異常な光景」であるか、当時を知らない筆者には想像しがたい。
まず、三色刷りの「差別者橋本哲朗糾弾」のポスターが朝来町とその周辺一帯に張り出されていた。
糾弾が始まったのは、一〇月二〇日夜七時から。解放同盟沢支部同盟員と白治労組合員の朝来町職員を中心に、約五〇〇人が橋本宅を取り囲み、八カ所にテントを張って五台の投光器や拡
声器を設置し、前庭で焚き火をした。そして、拡声器を使って解放車から夜通し罵声を浴びせ続けた。
当日の橋本宅には哲朗氏のほか、祖母一八九歳)、母(六一歳)、妻(三五蔵、山口小教諭)、長女(一六歳)、長男(一三歳)、次女(一歳)の六人も一緒に閉じ込められることになった。
翌二一日も二四時問、拡声器での罵声や解放同盟員らのシュプレヒコール、そして夜は投光器を照射するなどの蛮行を続けた。
二二日には、「橋本糾弾閾争共闘」への参加団体は、自治体職員が加盟する自治労朝来町職員組合や朝来郡内のほかの自治労組織など、三〇に膨れ上がり、現地調査に駆けつけた日本共産党所属の木下元二衆院議員、前田英雄県会議員ら七人も、橋本宅に押し込められた。
二三日になると、動員数はさらに増えた。朝来中学校の平井重一校長、太幸史郎教頭が、同校「解放研」の生徒を含むほとんどの生徒を引率し、橋本宅までデモ行進させて
「赤犬出てこい」「橋本糾弾」とシュプレヒコールを上げさせた。
この日は、自治労を中心にした労働組合員、兵教組
組合員、町内会の婦人部、老人会、隣組まで動員し、約三〇〇〇人を橋本宅周辺に集め、「橋本糾弾闘争共闘集会」が開かれた。
二四日になっても、同様の監禁状態は続いた。事の重大さを知った支援者が、兵庫県内外から集まりはじめた。こうした支援者に対して、解放同盟は生野峠などで「検問」
を行なったりし、あちこちで暴行・監禁をくり広げて傷を負わせた。
だがしかし、これはまさしく「人権侵害」であることは疑う余地がない。
「差別と人権」を旗印に掲げた解放同盟は、「魔女狩りを行う異端審問官」という差別主義者になりさがったのである。それらの現場には、和田山署幹部ほか多数の警官がいたというが、彼らは制止もせず、ましてや現行犯逮捕することもせず、暴力行為を黙認するのみだった。
二五日になると、前日を上回る動員によって包囲は強化された。
橋本氏が支部長を務める兵教組朝来支部のいくつかの分会も参加を強要された。この日、朝来中学校の全校生徒が再び動員され、県の上田平馬・但馬教育事務所長が、
県の教育委員会を代表し、橋本宅に向かって「糾弾」の声明文を読み上げた。
そして夕刻近くになると、解放同盟朝田・丸尾派は、町役場前に約五〇〇〇人を集め、「橋本糾弾闘争第一次総括大集会」を開いた。一方、橋本氏の支援者たちも、円山川
の川原に四〇〇〇人が集まり、
「解同朝田一派の蛮行糾弾、民主主義擁護、公正・民主的な同和行政推進、橋本哲朗氏
激励決起集会」を開いてデモ行進した。
集会参加者たちはこの間、各所で解放同盟員の襲撃を受け、負傷者が次々と近辺の病院に運び込まれていった。
そのほか、橋本氏の支援者に対する暴力は数知れず、なかには失明した者までいた。
丸尾らは、その日の午後一〇時頃になってようやく、橋本氏宅の包囲監禁を解き、まる一週間にわたる糾弾はようやく終わった。
まさしく、無法地帯であった。
警察力ですら、「人権圧力」で黙らせる。
彼らはまさしくこの地域に「恐怖政治」を敷こうとしていたのである。
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