2009年06月17日

ユダヤ難民の足跡ツアー 上海で静かなブーム 子孫ら「ルーツ探し」

ユダヤ難民の足跡ツアー 上海で静かなブーム 子孫ら「ルーツ探し」

 【上海=河崎真澄】ユダヤ難民の足跡をたどるツアー中国上海市を訪れる外国人観光客に静かなブームになっている。1933年のナチスドイツ台頭で欧州を追われたユダヤ難民のうち、日本などを経由して3万人近くが上海に流入した。戦後、米国に亡命して生き延びた人も少なくなく、その子孫や関係者らが「ルーツ探し」の一環として上海へも足を運ぶようになった。上海の日本人居留区の中に“ユダヤ難民ゲットー”が置かれていた事情もあり、ゆかりのある日本人も訪れるという。
 ■リトルウィーン

 「この一帯は当時『リトルウィーン』と呼ばれていました」。ボランティアでユダヤ難民ツアーの英語ガイドを引き受けている米コネティカット大3年生のエメット・マーキン氏(21)は旧ユダヤ教会(摩西会堂)から歩いてすぐの舟山路を案内して、こう言った。大学でのユダヤの歴史研究の一環だが、「民族の苦難の歴史を肌で感じたい」と自らの「血」のルーツ探しも兼ねて上海行きを選んだ。

 日中戦争の結果、上海に進駐した日本陸軍と海軍が1943年2月に、市内北東部の虹口区にあった日本人居留区に設置した「無国籍難民隔離区(通称ユダヤ難民ゲットー)」の境界線の内側がツアーの“目玉”だ。マーキン氏は週に何組もの観光客をここに案内する。

 実質的に中国の主権が及ばなかった米英共同租界やフランス租界、日本人居留区の場合、植民地とも違ってパスポートやビザを持たぬ難民の上陸を拒否する理由がなかった。このため在リトアニア領事館の杉原千畝氏が発給した日本通過ビザなどを頼りに、上海にたどりついたユダヤ難民は、ようやく避難場所をみつけることができた。

(中略)

 ■日本軍も再評価

 戦時中なぜ、日本軍は上海にユダヤ難民の隔離区を置いたのか。上海社会科学院研究員で上海ユダヤ研究センター主任も務める潘光氏は、「同盟関係にあったナチスドイツが上海に流入したユダヤ難民の“最終解決(大量虐殺)”を迫ったのに対し、日本軍は“ゲットー”に似た隔離区を居留区に設けることでナチス側の妥協を取り付け、要求をかわした」とみている。

 日本軍にはユダヤ人迫害に加担したくない事情もあったというが、それでも潘氏は「日中戦争の暗い影とは異なる人道的な日本の決定が上海で下されたことも歴史の真実だ」と再評価した。全氏は、「日本軍が当時、ユダヤ難民を迫害したと聞いたことはない。大問題になったのは日本軍のトラックが難民数人をひき逃げした事件と、1945年に米軍機が難民の住宅を誤爆したことだけ」と証言する。


 この上海居留区の話は結構昔から知っていましたが、なかなか知られていませんね。
 上海のこのツアーの隆盛で、日本軍の功績が少しでも広まると良いのですが。

もっとも、背後には日本との友好ムードを維持して、反日運動を抑えたい共産党の意向も透けて見えますが。

参考リンク
Japan On the Globe(260) 国際派日本人養成講座 地球史探訪: ユダヤ難民の守護者、犬塚大佐  日本海軍が護る上海は1万8千人のユダヤ難民の「楽園」だった。

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posted by 加納綾一郎 at 22:24| 東京 不明| Comment(0) | TrackBack(0) | 【珍道中】民主党【在日利権】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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